7月に”競合”のSmartHRが約100億円の資金調達に成功した。SmartHRを簡単に調べてみるとARR(年間経常収益)や従業員数が急拡大しており、それらがすでにPACを超えていることがわかった。
前回のブログではPAC株下落の要因を「地合い」や「M&Aの失敗」と推定しているが、チャートを見ると、SmartHRの躍進が顕在化し始めた頃から(2023/11/21SmartHR、2023/11/30SmartHR)、PACと同業のカオナビの株価は右肩下がりになっている。そして上場来安値を更新している。これらの大幅下落は「SmartHRの台頭」が主因になっていた可能性がある。
<7/12のグロース指数の1年チャート> グロース指数は3月頃にいったん上昇している。
<7/12のPACの1年チャート> PAC株とカオナビ株は1月以降、グロース指数と連動せず、一貫して右肩下がりになっている。
<7/12のカオナビの1年チャート> *4月頃に急落しているのは子会社の情報漏洩が発覚したため。
SmartHRがPACの脅威になる可能性も出てきたので、SmartHRについて詳しく調べてみた。
■スマートHRとはどんな会社か
クラウド人事労務ソフト「SmartHR」などのSaaSを手がける会社。人事労務SaaSでは国内トップシェアで、国内約50%を占める。現在、このSaaSをベースにタレントマネジメントSaaSのクロスセル(併売)を拡大させている。足元では勤怠管理SaaSやID管理SaaSなども立ち上げ、SaaSのマルチプロダクト化を進めている。
■業績
2019年12月期のARR(売上高のようなもの)は約15億円 純利益は-11億円 純利益率-73%
2020年12月期のARRは約32億円 純利益-37億円 純利益率-118%
2021年12月期のARRは約62億円 純利益-49億円 純利益率-79%
2022年12月期のARRは約100億円 純利益-60億円 純利益率-60%
2023年12月期のARRは約150億円 純利益-112億円 純利益率-74%
*ARRは3/11SmartHRを参照。資料では「12月期」ではなく「2月」を区切りにARRを集計しているが、ここでは便宜的に「12月期」としてまとめた。
*純利益は7/17官報ブログ +プラスを参照。
*営業損益は非公表。
■成長戦略
「人事労務SaaSのシェアを拡大させ、そこに他のSaaSを付加していく」が基本戦略
成長戦略はまずは現在の基盤事業である人事労務SaaSのシェアをさらに拡大させていくこと。そしてそこにタレントマネジメントSaaSや勤怠管理SaaS、採用管理SaaS、ID管理SaaSなどを付加していくというものになる。最終的には、総務や経理を含むバックオフィス全体をカバーするマルチプルSaaSを目指す。今回の資金調達はこのプランの達成速度を速めるために行った。
ARR成長率は今後も年30~40%超の水準を目指す。SmartHRの2024年2月期のARRは150億円だが、これを2030~2032年頃までに1000億円に引き上げる計画(8/20日経)。社長は2022年1月のインタビューで「いま頭にあるビジョンが全て達成されたら、1兆円くらいの企業価値にいってもいいくらいのポテンシャルはある」と語っている。
■強み
SmartHRは自社の競合優位性として「シームレスさ」と「マルチプロダクト化」を挙げている。一つのシステム上で様々な機能が使えれば、ユーザーの使い勝手はよくなり、学習コストは下がる。一方で開発者側は新たなプロダクトの作製が容易になり、開発スピードが上がり、開発コストは下がる。複数のプロダクトをクロスセルさせれば、ARRは上がりやすくなる。
他にも7つほど、SmartHRならではの強みがある
1,UI/UXがすぐれている
「SmartHR」は使いやすさに定評がある。人事労務SaaSのレビューはトップ評価。
2,顧客基盤が広い
クラウド人事労務ソフトは規模の大小や業種を問わずに導入できるので、顧客基盤が広い。登録社数は現在6万社以上あり、クラウド人事労務の普及率はまだ10%程度なので、拡大余地は大きい。
3,解約率が低い
クラウド人事労務ソフトの継続利用率は99%超で、安定した事業基盤がある。
4,資金力がある
2023年3月時点で100億円超の手元資金があり(2023/3/15Next SaaS Media Primary)、2024年7月には約100億円の資金調達を行っているので、現在、おそらく150億円くらいの手元資金がある。
*PACの現在の手元資金(現預金)は約97億円。
5,人材が豊富
現時点で従業員が1200人超いる。今後も年200~300人増やしていく予定。
人材が豊富にいるため開発スピードが速い。
*PACの2024年6月末の従業員数は377人。
6,離職率が低い
離職率は4%程度。
離職率が低いため生産性が上がりやすい。
*PACの離職率は5.7%程度。
7,米系ファンドの助言を聞ける
資金調達は主に米系ファンドからしているので、グローバルな知見を経営に生かすことができる。7/2stock journal
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<SmartHRの離職率が低い理由>
日本企業の平均離職率は15%程度だが(2024/1Edenred)、SmartHRの離職率は約4%と下限に近い。気になったのでその理由を調べてみた。
1,現社長が組織作りに長けている
現社長は2代目社長になるが、社長に抜擢されたポイントは熱量の高さと組織作りのうまさにあるという。社外取締役によると、現社長は変化に対応することや働きやすい環境を作るのが抜群にうまいという。
2,フルリモート勤務完備・好立地のオフィス
開発陣はフルリモート勤務の仕組みが完備されているため、在宅でも快適に業務をこなすことができる。オフィスは好立地にあるので、出社する場合、通いやすい。
3,カルチャー重視の採用をしている
スキルがあっても会社の文化と合いそうにない人は採用しない方針。
組織文化を維持するために多くの時間を費やしている。
4,内部情報を外部に積極的に発信している
社長や社員が自社の社風やプロダクト情報をSNSなど各種メディアで積極的に発信しているため、入社後のギャップが生じにくい。
5,オープンでフラットな組織体制がある
SmartHRでは会社の資金繰りも隠さず、入社1日目の社員でも会社の預金残高を見られるようにしている。開発会議には誰でも参加可能。意思決定や財務情報をオープンにし、危機感を共有することで意思の方向がそろいやすくなっている。
6,「人事」に関心がある人が多い
SmartHRはクラウド人事労務がコア事業なので、「人事」に関心がある人が多く集まっている。そのため社内の人事制度は改善され、働きやすい環境作りができている。
7,給料がよい
平均年収は同業他社より100万円くらい高い740万円になる(2024/4/25note)。
(8,職場環境が”ぬるい”可能性がある)
SmartHRは赤字企業にもかかわらず、好立地にオフィスを構え、高給で人を大量に雇っている。開発陣はほぼフルリモートなので、会社の目が届きにくい。運転資金はすべて外部に頼っており、利益への執着は若干薄いようにも見える。このような会社は総じて従業員に対する評価が甘くなりがち。「楽で給料がいいから」という理由で離職率が低い場合は、高度なタレントマネジメントをしているとはいえない。
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■問題点
・レッドオーシャン領域に参入
今後新たに参入する勤怠管理SaaSや採用管理SaaS、ID管理SaaSは、すでにレッドオーシャンになっている。SmartHRは「使いやすさ」「低価格」「シームレス」を武器に勝負をかけるようだが、今後提供するSaaSは他社のコピー製品になるので、たいした付加価値は生まれない。またAPI連携で他社SaaSでもほぼシームレスに使えるので、「シームレスさ」でもたいした付加価値は生まれない。大金を投じてやる価値があるのか疑問。
・戦略が中途半端
SmartHRはバックオフィス業務全体をカバーするシステムを目指しているが、それならどうしてERP(統合基幹業務システム)を作ろうとしないのか疑問。現在のようなつぎはぎ戦略では、いずれ質の高いERPに乗り換えられる可能性がある。
・「SmartHR Plus」と競合する
「SmartHR」には「SmartHR」上で他社が作った各種SaaSを使える「SmartHR Plus」というサービスがある。ここには勤怠管理SaaSや給与計算SaaSなど現在約30のSaaSがある。SmartHRは自社でも勤怠管理などのSaaSを作ろうとしており、他社が提供するSaaSと競合する。この調子でいくと、他社の開発意欲が低下し、顧客の利便性が低下する可能性がある。
・タレントマネジメント機能は弱い
現在主力のタレントマネジメント機能は「分析レポート」「従業員サーベイ」「人事評価」の3つ(*直近では「キャリア台帳」「HRアナリティクス」「学習管理(LMS)」「採用管理(ATS)」の機能が追加されている)。これらを別々でオプション販売している。「タレントパレット」のような包括的なシステムではなく、断片的なシステムなので、タレントマネジメントシステムの総合力は弱い。
・データ分析は初心者
SmartHRがこれまで作ってきたソフトウェアは業務効率化が目的のDXソフトが中心になる。今後はデータ分析の領域にも進出する必要がありそうだが、データ分析はこれまでのように簡単に真似できるものではないので、競合に追いつくまで時間がかかる。
・高コスト体質
SmartHRは利益が出ていないにもかかわらず、人材を大量に採用し、高給で雇っている。現在の社員数は1200人以上おり、その1200人に平均年収740万円を支払うとそれだけで約88億円になる。オフィスは超一等地にあり、テレビCMなども流しているため、資金の減りは相当早いはず。
*SmartHRの倉橋COOは以前「売上がT2D3に伸びるのであれば、従業員数もT2D3で伸びないと成長にヒトが追い付かない」と言っていたようなので(7/29Next SaaS Media Primary)、採算度外視で人を大量に雇っている可能性がある。
*T2D3とはTriple, Triple, Double, Double, Doubleの略で、サービスをスタートしてからの売上高が、前年を基準に毎年3倍、3倍、2倍、2倍、2倍と上昇し、「5年で72倍」の売上高になるという意味。
・財務状態が悪い
SmartHRのCFOは7月の資金調達時のインタビューで、「手元資金もまだ十分にあるとともに、キャッシュフローも改善傾向にあることから実際には調達無しに事業継続は可能であるという状況」とは言っているが、高コスト体質なので、実際どの程度資金が残っているのか不明。2023年12月期の決算公告では純資産額が5億2100万円となっている。
CFOは同インタビューで「今年中にはキャッシュフローもブレイクイーブンの目途が立っています」とも言っているが、これまでの純損失率や”低付加価値戦略”を見る限り、キャッシュフローが今年中にブレークイーブンになるのか疑問。外資ファンドがSmartHRを半年くらいかけて精査してから出資しているので(7/2stock journal)、成長確度はそれなりに高そうだが、早々に運転資金がショートする可能性もある。
■PACとSmartHRの業績比較
2023年9月期のPACのARRは112億円。ARR成長率は約40%。純利益は26億円。
2024年2月期のSmartHRのARRは150億円。ARR成長率は約50%。純利益は-112億円。
*参照:7/23Next SaaS Media Primary、7/9Next SaaS Media Primary
*SmartHRのARR150億円のうち、タレントマネジメントSaaSがどのくらいの比率を占めるのかは不明。
■まとめ
SmartHRの成長スピードや資金力、従業員数は脅威になりそうだが、タレントマネジメント領域においては事業内容がだいぶ異なるので、直接の競合にはならなさそう。
「タレントパレット」の開発もいつかは頭打ちになり、いずれは機能的に追いつかれる可能性もあるが、そのときにはすでに勝負はついていそうなので、長期的にもあまり脅威にはならなさそう。
とはいえ、タレントマネジメント市場の市場規模には限りがあり、機能面でも若干被るところはあるので、まったく影響を受けないとはいえない。現時点でSmartHRがPACの脅威になるとは思っていないが、無視できる存在でもないので、今後も観察は続けていく。
■調べていて気づいたこと
・クラウド人事領域の高成長は続く
2024年2月27日発刊のミック経済研究所のITリポートに「HRTechクラウド市場は2023~2027年度まで年平均31.8%で成長を続け、2027年度には3,200億円市場と予測」「人事・配置クラウドや育成・定着クラウド市場では、人的資本経営の対応及びタレントマネジメント需要の拡大により、大手企業中心にシステム導入の検討が加速」とある。
「タレントパレット」の成長余地はまだまだありそうなことがわかった。気になるのは「タレントパレット」の成長率が市場成長率を下回りそうなこと。前期の売上高成長率は40%で、今期は31%程度になる。この調子でいくと、来期は市場成長率を下回りそう。やはり競争は激しくなっているのかもしれない。
・SaaS企業のPSR平均値は4.9倍
7/9Next SaaS Media Primaryに、7月時点の日本の上場SaaS企業の平均PSR(売上高株価倍率)は4.9倍とあった。PACのPSRは現在6.8倍くらいなので、上位クラスにいることになる。来期業績換算では5.6倍くらいになる。PACの売上高・利益成長率は20%超あり、利益率は上場SaaS企業の中でとりわけ高い水準にあるので、PSRは8倍くらいはあってもよいのではないかと思う。
・PACの給料はSmartHRより低い
PACは相当な利益を上げているのに、赤字企業のSmartHRより平均年収が低い。PACの平均年収は業界平均と比べて低いわけではなく、去年よりも5%くらい上がっているので(*四季報参照)それほど問題ないとは思うが、赤字企業よりも100万円くらい少ないのは少し違和感がある。
7/10日経に、「高給企業の代表格であるキーエンスは業績を給与に反映させる仕組みを導入しており、それにより社員の経営参加意識が高まり、業績が上がりやすくなっている」みたいなことが書いてあった。PACはキーエンスと似たコンサル・開発型の企業なので、キーエンスのような報酬体系にしてもよさそう。PACは慢性的な人手不足に陥っているが、このような報酬体系にしたらそれもすぐに解消するのではないかと思う。昇給や高給は社員のエンゲージメントを高める最も重要なタレントマネジメントの一つでもあるので、もう一工夫してもよいのかもしれない。
7/26日経には、「米テック大手の「GAFAM」は毎年、発行済みの株式1%前後を役員や社員に付与し、そのオーナーシップを成長の原動力にしている」とある。PACは上場後に1回も株式報酬制度を活用していない。株価が低迷しているときでも全く動かなかった。PACはタレントマネジメントシステムを提供する会社なのだから、こういった施策も活用すべきではないかと思った。
とはいえ、PACの離職率は下限に近く、エンゲージメントスコア(満足度)も高水準にあるので、それほど問題があるようにもみえない。株式報酬制度を多用すると、社員がリスクを取り過ぎたり、長者になった社員のモチベーションが下がったりすることもあるようなので、今の状態が好調なら今のままでもよいのかもしれない。
・橘氏がPeopleXを起業
Next SaaS Media Primaryを読んでいたら、弁護士ドットコムのスーパースター・橘大地氏が4月にPeopleXを創業し、6月に16億円の資金調達をしていたことがわかった(笑)。事業計画と信頼感だけで16億円を調達するところはさすがといった感じ。
この会社もタレントマネジメントなどのHRテックを手がける会社になるが、タレントマネジメント事業では顧客ターゲットや事業コンセプトが従来のものとは少し異なる。現在普及しているシステムは管理者側が主体のユーザーになるが、PeopleXのシステムは従業員側が主体のユーザーになる。
PeopleXが提供するタレントマネジメントSaaS「PeopleWork」のコアコンセプトは「エンプロイー・サクセス(従業員の成功)」。これは従業員を成功させることで、企業を成長に導く、というもの。「大転職時代」を見据えたサービスで、主に中途入社の社員の即戦力化を促すものになる。
転職が当たり前の時代になると、個々の従業員が自身のキャリアパスの見通しのよさを実感できる会社が選ばれ、従業員を単なるコマとして管理する企業は選ばれなくなっていく。1人ひとりがキャリアパスを自由に描くことができる会社であれば、従業員のより本質的で積極的な会社への貢献が生まれ、企業の成功可能性も高まる。企業側は中途採用者の増加や定着、離職に効果的に対応できるようになると、より柔軟に多様な人材を採用し、総合的な競争力を高めることができるようになる。
*中途入社の社員の離職率は高い。ビズリーチの調査(2020)では3年以内の離職率は39%になる。
「エンプロイー・サクセス」という視点は「タレントパレット」には少し欠けている視点。「タレントパレット」は組織管理的なアプローチのSaaSなので、管理者側の評価は高いが(ITレビュー)、一般社員側の評価はあまり芳しくない(ITトレンド)。これでは「大転職時代」にはあまり機能しないシステムになってしまう。
「大転職時代」では「エンプロイー・サクセス」の視点が必要になってくるので、「タレントパレット」にも「PeopleX」のような仕組みがほしい。橘氏は「エンタープライズ向けHR事業に参入する」「既存のHR Techをディスラプトしたり、競合とするのではなく、連携しながら新たな日本の雇用環境に最適解を出していく」(6/3Next SaaS Media Primary)とも語っているので、「タレントパレット」との連携の道もあるかもしれない。少し期待したい。
<「大転職時代」について>
年間採用数に占める中途採用の割合は2010年の10%程度から2024年には40%超まで高まっている(4/8日経)。中途採用が増えている理由は、日本特有の「年功序列」や「終身雇用」などの雇用慣行が崩れつつあることや、人手不足、テクノロジーによる事業環境の急速な変化などのため。この傾向は今後も続きそうなので、中途採用はさらに増えていく可能性が高い。
日本経済を成長軌道に乗せるには成長産業に人材を移す取り組みも必要なので、今後は解雇規制が緩和され、人材の流動性がより高まる可能性もある(9/11日経)。
数年後には「AI・ロボット社会」が本格到来し、(失職と)転職がより一層活発になっていく可能性がある。
ただ、その後は転職を伴わない大失業時代が訪れる可能性がある。