2017年3月10日金曜日

新高値投資法の始祖 ニコラス・ダーバス

ニコラス・ダーバス氏の経歴を『私は株で200万ドル儲けた』とWikipediaからざっとまとめていく。

・1920年にハンガリーで生まれる
・ブダペスト大学で経済学を学ぶ。
・1943年、23歳のときに偽造ビザでトルコへ脱出。異母姉のジュリアと会ってダンサーになりヨーロッパやアメリカを巡業する。

・1952年11月。ダンス関連の付き合いでカナダの鉱山会社の株を3000ドル分購入する。2ヶ月後にそれが11000ドルになり、株にはまる。
その後、本を読んだり専門家の話を聞いて株を買っていくが、1953年には5800ドルまで減ってしまう。

・1954年。5800ドルに自己資金を足して1万ドルにして、ニューヨークに口座を開く。強気相場だったため資金は14600ドルまで増える。本を読みながら試行錯誤を続ける。

・1955年。専門家や投資格言は無視すべきだと悟り、ファンダメンタルズ投資に専念するようになる。ファンダメンタルズを徹底的に分析し、とっておきの銘柄をみつける。財産のすべてを担保に入れ3万7000ドルを捻出し、それを1銘柄に集中投資する。しかし株価は下がり9000ドルの損失が発生してしまう。そこでやめることも考えたが、担保に入れた土地を守るためにもう一踏ん張りすると決める。

値動きのある株式に注意を払っていくと1つの会社が目にとまる。その会社のファンダメンタルズは情報が少ないため全くわからなかったが毎日着実に価格が上昇していくのがわかる。そこを買ってみると4500ドルの利益を得る。
同じような銘柄を探すと他にも見つかり、同じように投資するとまたうまくいく。
ファンダメンタル投資に疑問符が付き、テクニカル(株価の動きと出来高)を重視するようになる。
このころまでに株式関連の本を200冊以上読み、もう本から学ぶことはないと悟る。

・1956年。ボックス理論を開発し、トレードは順調にいくようになる。しかし一つのトレードで今までのもうけをフイにしてしまう。マーケットに確実なことはないと気づき、”素早い損切り”を投資法に組み込む。
ダンスの世界ツアーに出発。ブローカーとは電報で連絡をとりあって売買を続ける。金融誌バロンズだけは定期購読を続け、そこから銘柄を発掘していく。

・1957年。資金が3万7千ドルに戻る。その後も投資していくがストップロスオーダーにどんどんひっかかってしまい持ち株がなくなってしまう。その後市場は弱気相場に入ったため、ボックス理論に自信を深める。

・1957年11月。市場が落ち着いたため投資を再開。1958年の5月には8万ドルまで増える。その後は信用取引もフル活用して積極的にトレードしていく。1959年1月までに50万ドル稼ぐ。この間の損失は1万ドル。

・世界ツアーから帰ってくると、証券会社のディーリングルームに入って取引するようになる。ボックス理論を使わず、集団心理に従って投資をしていくと10万ドルの損失が発生してしまう。パリに行き気持ちをリセットして、また元の方法に戻す。

・1959年2月からトレードを再会し、そこから一気に200万ドル儲ける。
*1957年12月から1959年7月はまれに見る強気相場でS&P500は53%上昇している。

・1959年5月にウォール街でうわさになり、タイム誌のインタビューをうける
・1960年。39歳の時に『私は株で200万ドルを儲けた』を出版。
・1960年。ニューヨークの弁護士から本の内容に偽りがあるとの告発をうける。実際の利益は21万ドルではないかとのこと。ダーバスの口座は法的に調べることができず結論はうやむやに。

その後の経歴はよくわからない。後の著作には演劇のプロデュースや服飾関係の仕事、不動産などで成功したと書かれている。
・1977年に死去。

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